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【SNSへの問い】Twitterにおける主観的正義の問題について

私たちの生活に欠かせない存在であり、もはや社会インフラのひとつのように巨大化したSNS。
今回は、そのSNSの中から、Twitter(ツイッター)における正義の問題について考えてみます。

そもそもSNSとはなにか

まずは、 SNSについて定義します。

デジタル大辞泉の解説によると、SNSとは《social networking service》の頭文字をとった略称です。

SNSとはインターネットを利用した次のようなサービスであると定義されています。

  • 個人間のコミュニケーションを促進
  • 社会的なネットワークの構築を支援
  • 趣味、職業、居住地域などを同じくする個人同士のコミュニティーを容易に構築できる場

このようにSNSとは何かということを定義してみると、2021年におけるTwitter(ツイッター)はとても異様なものに思えてしまいます。

企業のTwitter(ツイッター)アカウントの登場

私自身が今でいう「企業Twitterの中の人」という仕事を初めて経験したのは、2012年ごろのことでした。
「企業Twitterの中の人」をはじめた経緯はその当時、私がその会社のウェブ制作だけではなく、広報のすべてを担当していたことから、会社のキャンペーンのPRのために企業アカウントを作成したように記憶しています。
私自身は2011年にはTwitterの個人アカウントを運用していましたので、Twitter(ツイッター)は身近なものでした。
しかしながら、今のように企業アカウントが氾濫している時代ではなかったように思います。
自分自身が提案し、「企業Twitter(ツイッター)の中の人」という仕事をしていたことを思い返せば、企業が自社のPRにTwitter(ツイッター)を活用するという発想は何ら不思議ではないのですが、元々の定義を合わせて考えると企業アカウントという存在は異質に思えます。

有名人・著名人のTwitter(ツイッター)アカウントの登場

有名人・著名人アカウントの登場がいつからかは記憶していませんが、企業アカウントと同じく徐々に増えていったという印象があります。
今では、芸能人、アイドル、スポーツ選手、政治家、文化人、漫画家・・・などいちいち挙げることができないくらいさまざまな有名人・著名人が仕事のPRの場としてTwitter(ツイッター)を利用しています。
個人的にはサッカーの審判として有名な家本政明さんがTwitter(ツイッター)での発信を始めたことにおどろきました。
家本政明さんを例にしていうならば、サッカーの審判の方が発信する言葉を聞く機会は今まで皆無に等しかったわけです。
好きなタレント、好きなサッカー選手であれば、何かしらの機会で直接話す機会もあります。
ところが審判の方というと、そうはいきません。
どこにいるかもわかりませんし、どこで話しかけることができる存在なのかもわかりません。
共通の友人を作るくらいしか方法は思いつきません。
そのようなことから私は家本政明さんがTwitter(ツイッター)アカウントを開設されたことで、「どうやって話しかければいいかわからない人に話しかけることができる」というSNSならではの「実生活世界と異なるSNS上の距離感の特性」を改めて実感したのです。

Twitter(ツイッター)という空間の変容

このように企業や有名人・著名人がTwitter(ツイッター)に参入してきたことで、先に挙げたSNSの定義は大きく変容したように感じます。
趣味、職業、居住地域などを同じくする個人同士のコミュニティーを容易に構築できる場という機能はもちろん健在ですが、個人間のコミュニケーションを促進についてという機能については歪みを感じてしまいます。
この「個人間」というものを、Twitter(ツイッター)的に解釈すると、アカウント=個人となります。
ところが、先に述べたように現在は玉石混交なアカウントが存在するのがTwitter(ツイッター)です。
匿名の初期アイコンの不審なアカウント、暴言を吐いては消して甦るアカウント、匿名性は高いものの発言に問題はないアカウント、実名・顔を公表しているアカウント、企業・有名人・著名人アカウント・・・そのすべてがTwitter(ツイッター)というプラットフォームにおいては平等な個であり、アカウントさえ持っていれば、誰にでも話しかけることが可能となります。
本来であれば、それは趣味、職業、居住地域などを同じくする個人同士のコミュニティーを容易に構築できる場として活用されるためのものだったはずです。
ところが、現代ではそれに加え、企業・有名人・著名人アカウントによるファンマーケティングという要素が加わってしまったことが、SNSの問題を引き起こす一端を担っているように思うのです。

ファンマーケティングの問題

企業アカウントのファンマーケティングの問題もありますが、今回そこは省略。
別テーマのときに考察するかもしれません。

ファンマーケティングとは、自社ブランド、商品、サービスのファンを獲得するためのマーケティング手法です。
顧客と企業というこれまでのような距離感ではなく、SNSでのコミュニケーションを通じて「ファン」になってもらうことで生活の一部に入り込み、親しみを持ってもらう、応援してもらうこと(口コミ・継続購入など)により中長期的な売り上げの増大、ブランドやそのカルチャーの共創を図るマーケティング方法、またはその概念です。
このように、ファンマーケティングはどちらかといえば、企業アカウントの概念ですが、有名人・著名人アカウントのTwitter(ツイッター)利用の「目的」もこのファンマーケティングと同質なものといえるでしょう。

多くの場合は「ファン」に楽しんでもらい、親しみを感じてもらうことができるTwitter(ツイッター)を活用することは有名人・著名人の人にとっては、より人気を獲得するきっかけとなっています。
このことは有名人・著名人アカウントが続々と増えていることが裏付けているのではないでしょうか。

しかしながら、有名人・著名人アカウントはときには人命にもかかわるような誹謗中傷のターゲットになってしまうケースもあり、最悪の事態が引き起こされるという結果にもなってしまいました。

誹謗中傷がエスカレートする理由

誹謗中傷がエスカレートする理由は相手が有名人・著名人アカウントであり、誹謗中傷を行う人が匿名だからです。
草むらに隠れて石をぶつけるかのように匿名アカウントが誹謗中傷をしても、ほとんどの有名人・著名人アカウントは無視をします。
ところが、有名人・著名人アカウントの場合は、公の活動を誰もが目にすることが可能ですので、いくら誹謗中傷されても変わらないに日常を過ごしていることがわかってしまいます。

たとえば、日常でよくある話ですが、LINEで既読スルーされた相手がSNSをやっているのを見つけてしまたときです。
そんなとき、もちろん相手との人間関係や、個々の性格にもよりますが、「SNSをやる暇があるのにLINEは既読スルー?」と、少しムッとしませんか?

つまり、誹謗中傷する人にしてみれば、有名人・著名人アカウントが他のことをやる時間があっても自分のことはスルー、しかも楽しそうに過ごしていて相手はダメージなど一切受けていないという「悔しさ」がさらに誹謗中傷の気持ちを掻き立てるのではないでしょうか。
それだけではなく、SNSでのつながりにより一方的に縮ませた距離感への意識もあるように思います。

また、趣味、職業、居住地域などを同じくする個人同士のコミュニティーを容易に構築するかのごとく、誹謗中傷がある種のコミュニティーのように広がって、「あの人が言っているから自分も言っていい」と言わんばかりに連鎖していくことも誹謗中傷がエスカレートする要因のひとつでしょう。

誹謗中傷と正義の問題

誹謗中傷はいってしまえば一部の人たちが引き起こすことであり、多くのTwitter(ツイッター)ユーザーには関係のないことです。
どちらかというと、被害者になる可能性の方が高いでしょう。

誹謗中傷の防止については、ユーザーによる通報、Twitter社によるアカウントの凍結などで一定の効果をあげているように感じます。

しかしながら、誹謗中傷の問題が全く別の問題を引き起こしているように思うのです。
それが正義の問題です。

誹謗中傷は悪です。
これは言い切ります。
どれくらい悪かというと道を歩いている見知らぬ人をいきなり殴るくらいに悪です。
悪意のある言葉による精神的なダメージは肉体へのダメージに勝ることもあるといいますから、誹謗中傷は許されない行為です。

思考実験

では、

「同じ会社の人が嫌い!!許せない!!消えろ!!」

という個人的な怒りは、同じ会社の人に対する誹謗中傷でしょうか?
また、このような発言をしている人が求めていることはなんでしょうか?
同じ会社の人にこの気持ちを伝えたいわけではないですし、SNSという場を借りて消えろとお願いしているわけではありません。

このような怒りのツイートが内包しているのは、

「消えて欲しいくらい嫌いで許せない人と一緒に働いている辛い気持ちを共感してほしい、我慢して頑張っている自分を認めて欲しい、肯定して欲しい」

という気持ちだと思うんです。

もちろんこれを相手に直接リプライしたり、相互フォローしていながらいわゆる「空リプ」するのはいけません。
同じ会社の人にバレない前提でツイートして、フォロワーの人たちに「自分の怒り」を「共感」してもらうこと。
それはまったく悪いことではないと思います。
あまりに暴言が行き過ぎるのは困りますが 笑

ところが、正義感の強いユーザーは、誹謗中傷や主観的に見て誹謗中傷のように思えるものに対する自治に敏感になっていませんか。

たとえば、上記のようなツイートに対して、

「会社の人が嫌い!!だとか、許せない!!消えろ!!だとか言わないほうがいいんじゃないかな。そういう言葉がタイムラインに流れてきたらきっとみんな気を悪くしてしまうよ。ここで怒りをぶつけるのはやめようよ」

となだめるようなリプライがついているのを見たことはありませんか。

しかしながら、逆の立場で自分が怒っていて、それをツイートするくらいに悔しいとき・・・そうやって、常識人な立場からなだめられるのはどんな気持ちになるのだろうかと思うのです。
言っていいこと悪いことはありますし、言葉選びの責任はあるというのは前提ですが、相手のことが嫌いではないならたまには多少の暴言に寛容になってもいいのではないかと思います。

別に特別な言葉をかけてあげなくても「いいね」を押してあげるだけでもいいはず。

人はTwitter(ツイッター)の「いいね」をどこまでも自分の都合のいいように解釈するものです。

たとえば、こんな感じ。

  • 自撮り写真のツイートへのいいね→かわいいね
  • コーディネート写真のツイートへのいいね→おしゃれだね
  • ご飯が美味しかったよというツイートへのいいね→よかったね
  • 好きなスポーツチームが勝ったよというツイートへのいいね→勝利は最高だね
  • 〇〇を作ったよという写真のツイートへのいいね→上手だね

つまり、怒っている人をなだめたり、アドバイスする必要はないのです。
「いいね」するか、「不快だしスルー」でいいと思います。

基本的に人間は自分が間違っているとはいわれたくないものだと思うので、「いいね」したくないなら「不快だしスルー」の方がまだなだめたり、アドバイスするよりも優しいのではないでしょうか。

どうしてもひとこと言いたいときは「大変だね。だけど、乱暴な言葉は自分の心にとってもいい影響を与えないから言い方を・・・」みたいに相手の怒りは肯定してあげつつ指摘するのがいいのではないかと考えます。

Twitter(ツイッター)における正義は本来なら誹謗中傷するような悪い人にだけ向けるべきなのに、「自分にとっての正義」を行使する自治のために利用されているように感じます。
その根底にあるのは、誹謗中傷するような世の中はよくない、正そうという善良な正義の心かもしれません。
ただ、相手の言葉が個人的な範囲の怒りなのか、誹謗中傷に類するものかということはしっかり分けて考えた方が優しい世の中に近づくのではないでしょうか。
それは相手を尊重するということにもつながるように思います。

みんなが誰かを不快にしている

  • 誰とも問題を起こさず、常に常識的な発言しかしない
  • ネガティブな発言などしたことはない

多くのTwitter(ツイッター)ユーザーはそうですし、正義を行使し自治を行う人はもちろんそうでしょう。

ただ、考えてみて欲しいのです。
果たして、あなたのツイートは誰かを不快にしたことはないのでしょうか。

たとえば、

  • 有名大学に合格した
  • 海外旅行に行った
  • すごいプレゼントをもらった
  • 表彰された
  • 誕生日デートで幸せ

どれも明るい話題でまさに「いいね」したくなるようなツイートです。

しかしながら、大学に不合格した人、海外旅行に行くお金がない人、プレゼントをくれる相手がいない人、褒められる機会が少ない人、恋人がいない人から見たら、ときには不快に思わせてしまうかもしれません。

良識のある人はわざわざ他人の幸せに水を差すようなことはいいませんし、いちいち妬んだりはしませんが、自分の置かれている状況やそのときの気分という波があるのが人間です。
ときには、内心毒づいてしまうこともあるでしょう。

何が言いたいかというと、みんなが何かしらの形で誰かを不快にするツイートをしているかもしれないということです。
つまり、自分のタイムラインに誰かの怒りのツイートが流れてきたとしてもそれはお互いさま
そういうときもあるよね、ということなのではないでしょうか。

「ネガティブなことは言わないほうがいいんじゃないかな。そういう言葉がタイムラインに流れてきたらきっとみんな気を悪くしてしまうよ。ここで怒りをぶつけるのはやめようよ」

このようになだめてアドバイスするよりも、

「この人はどうして怒っているんだろう?」

ということを一度考えてみると、まったく違う言葉が出てくるのではないでしょうか。

結局、みんな共感して欲しいだけであって、特別なことなんて求めてないんです。
しかも身近な人に共感してもらって解決している感情ならSNSにわざわざ持ち込まないですよね。

それに、他人が必ず自分にとって気持ちいいように行動してくれるわけがないんですよね。
お互いさまと許し、受け入れる気持ちもときには必要なように思えます。

ただし、怒りを直接相手にぶつけている人や言葉が激しすぎる人は論外です。
いつも怒っている人もスルーでいいと思います 笑

他人を正すよりは、その感情の在り処を考える方が自分も楽だし相手も楽なのではないでしょうか。

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麗乃(Reino)

麗乃(Reino)

社会人学生として慶應義塾大学に在学中。人生2回目の大学生生活を満喫しています。 佐賀県唐津市生まれ、東京育ちのフリーランスのWebマーケター・SEOコンサル・文筆家・美容ブロガー・美容研究家。 大好きな東京タワーのある港区のとある町で夫とカエルとサメたち暮らしています🐸🦈🗼 UK Rockをこよなく愛するバンドThe Charlene.(シャーレイン)のボーカルMiuとしての顔もあります😎 詳しいプロフィールはこちら

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